第七高等学校造士館 詳細年表
1902年 明治35年


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【公式校務】

1月
2月
3月 勅令第99号を以て文部省直轄諸学校職員定員令を制定せられ、本校職員の定員を改められる。
4月 文部省令第10号を以て、高等学校大学予科規定中追加せらる。
文部省告示第82号を以て大学予科入学試験規定を定めらる。
5月 教授岩崎行親校長兼教授に任ぜらる。
6月
7月
8月
9月
10月 本校校舎新営並び修築工事竣る。
11月
12月

【寮・福利厚生】

8月 寄宿舎の賄いは、之を請負制度とし、希望者を募集し、入札の結果、西千石町枝元氏に食費1日15銭5厘を以て決定。(爾後、食費のいくぶんの変動ありしも、大正2年3月;食費22銭;まで継続)

【七高学友会】

七高学友会が創立された。各部に部長を1名、委員2名をおいて、部一切の監督及び事務の処理を為すことになった。

【端艇部】

学友会内に端艇部が創部される。

【柔道部】

学友会内に柔道部が創設される。

【剣道部】

本部創設早々その日猶未だ浅く設備の見るべきものなしといえども、三尺の秋水、電光石裏春風を截り死生解脱の妙其間に発揮せられ其術を尽くして相戦うや、千変万化機に乗じ変に臨み、自ら光風宵月の境に置く。剣道の真意之が為め会し得られざるにあらず、まして先人既に斯道の消長隆替の如何は、国家精神武勇誠忠の赤心を判ずるの基とせるに於いてをや。然るに物変わり星移り世務開明武器精鋭絢爛たる皮想の文化に酔える学生、志気消沈し近時往々遊惰愉逸を求め武を冷眼視する傾向あるは誠に寒心の至りに堪えざるなり。幸に我部新進の旗幟鮮明本部の名誉を失墜せしめざるは勿論後進の士をして前者の訓の紹せしめ長く校風の一助たらしむべき大任を覚悟し、大和魂の特性を緩むこと勿れ。
初めは、撃剣道具僅かに五組で道場は柔道場と半分づつを取っていたが、あおの血汐の色醒めぬ、城山下のかけ声は壮絶に思いやるだに血は踊るのである。(大正15年記述)

【野球部】

草創時代 明治34年七高造士館創立の翌35年我野球部も此処に尊き使命と輝しき希望に満ちて現はる、時にも我球界は一高の覇業、早慶併び起るに及びて汲々乎として守成の難に陥り暁鐘乱打来るべき革新の烽火は高く中天に揚り球界正に混沌の時代に入らんとせり。此時薩摩隼人の意気を負い水清く風暖かき郷南溟の地に於て我野球部の出現は実に意義深きものありしなり。(大正15年記)

【庭球部】

学友会内に庭球部が創設される。

【弓道部】

学友会内に弓道部が創部される。
設立後、不幸にして部勢上がらず、殆ど廃止の状態にあった。(大正15年記述)

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【参考文献】


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